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アイデアブログ

行こう、どこにもなかった方法で 寺尾玄さん著書 読書感想文

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著者の寺尾さんは、 いまやパンをおいしく焼き上げるオーブントースターで有名なバルミューダの代表取締役だ。独学で機械設計を学び、一からものづくりをはじめた。当初はお金がなく町工場を間借りしながらパソコン用の冷却台の製造から始まったバミューダ。その後、扇風機という数十年変わらない電化製品を、独自の理論で新しい価値を見出し、10倍以上する値段で販売しヒットを飛ばすまでになる。しかしサクセス・ストーリーは、表面の良いところしか私たちの耳に届いて来ない。寺尾さんもここまで成功するには、幾つもの挫折、危機を乗り越えられてきたのだ。そしてその挫折や、危機を乗り越えられてきた理由は何だったのか。人との出会い。繋がり。母親との突然の別れ。手に汗握り、一粒の涙を流さずには読めない寺尾さんの半生が詰まった一冊。それが著書「行こう、どこにもなかった方法で」。
人の想いが形になるとき、それはどのような形で、人々の元に届いていくのかを教えてくれる、そんな一冊でもあります。
それでは早速紹介してみましょう。

少年時代

寺尾さんは少年時代を茨城県龍ケ崎市で過ごされた。わたしも仕事の関係で何度か訪れたことがあるが、未だに栄えているとはいえない地域だ。そんな自然豊かな地域で過ごされた少年時代に寺尾さんの原点があるようだ。

ご両親はとても情熱的な性格だったと寺尾さんは言っている。大恋愛をし周囲の反対もあるなか結婚をした二人。当初はよかったが、家計が悪い状況のなかでは、ずっと情熱的な関係を続けることは難しく、いつからかボタンの掛け違いが始まったようだ。

寺尾さんの母親は、人はどんなときも最大限楽しむべきという考えを持っている人だったのに対し、寺尾さんの父親は働いている姿こそ最も美しい姿であり、なるべく質素に暮らしたほうがいいと考える人だった。

これらの考えは子供への教育にも影響する。母親はとにかく見解を広めるという教育信念を持ち、海外旅行などにも連れて行ってくれたという。しかし反する考えの父親は、そのたびに機嫌が悪くなったという。

また母親は子供に対しても、とても勉強熱心で、幼少期は絵本の読み聞かせから始まり、小学校になっても、つきっきりで勉強を教えてくれた。とくに絵本には言葉があり、物語があり、ビジュアルがある。基礎的な言葉づかいに加えて、詩的な表現まで覚えられる。あの頃絵本の中で展開された世界から、いまも相当な影響を受けていると寺尾さんは言っている。

そうなんですよね。幼少期の経験は、その後の人生に与える影響が大きいというのはいうまでもありません。そして基礎学力は、何かをはじめるときにはとても大事なことです。

結局埋めることのできない溝ができてしまった両親は離婚してしまったそうです。寺尾さんは弟と一緒に父親の元に残る決断をしたそうです。理由は、友達と別れたくないから。子供らしい理由といえば理由です。その当時、友達が一番の宝物だったりしますからね。うなずけます。

さて、男3人になってしまうとそれはそれで大変で、家庭での役割分担を決めながら生活が始まったようだ。しかし生活費を稼ぐというのは父親の仕事に変わりはなく、当時は洋蘭の栽培事業を辞めて、色々な職種についていたが、ある日スーパーで見かけた陶芸教室のチラシを観て、「これだ」と思い、陶芸教室に通ってしまったのだとか。1ヶ月で俺は先生より上手くなったと、数カ月後には洋蘭の栽培事業で使用していたビニールハウスを陶芸小屋に改造し、粘土などを仕入れて陶芸家としてスタートしてしまうのだ。

毎日、ああ・・・だ。こうだ。と言っては興奮状態が続いているのが、子供ながらに分かったという。そして人間本気になったときの気合を間近で見ることが出来たのは幸運だったと寺尾さんは言っている。

母親との突然の別れ

中学校2年生のとき、母親との突然の別れが訪れた。日曜日の朝早くに親族から電話があった。母が危篤だと連絡が入る。入院している病院がハワイだということ以外に詳しい情報はない。

その後伯母から、ハワイの海岸で、シュノーケリングを楽しんでいる最中に溺れたこと。助けられたときには息はなく、既に人工呼吸器をつけていることが伝えられた。
まだ何処か信じがたい息子たちを尻目に、元夫である父親はその絶望的な状況を理解していた。

ハワイに到着したとき、母親は静かにベッドにいた。状態が状態なので、何ができるわけでもなく。今でも起き上がって来そうな気もするが。数日経つと医者から家族が呼ばれ、心の準備は出来たかと問われたそうです。
それは、最後のお別れを意味したのだった。

母の死後やんちゃに加速がついていく。やんちゃという表現がいいのか。本にも書いてあるが、尾崎豊さんの世界観を地で行く感じの生活が始まった。そしていつしか友人とも疎遠になり孤独になっていったそうです。そして新たなステージに旅立つか決め兼ねたとき、「玄、男なら荒野を目指せ。」父親から後押しもあり、寺尾さんはスペインに1人で旅にでることを決意したのだ。

スペインを中心に他の国へ一人旅は続く。そのうち直感的に生死を分けるポイントなど、わかるようになったというのだ。どんな町にも必ず悪はいる。そして人の悪ほど危険なのだとか。
著書の言葉のなかで印象深かったのは、旅行は目的地があって帰宅する日も決まっているが、旅は帰宅する日が決まっていない。そう片道キップというフレーズだ。まるで詩人。ミュージシャンのようだ。なと感じていたら、帰国後なんと彼はロックスターを目指してしまうのだ。なるほど、著書の節々にいい感じの言葉があるわけですね。

帰国がギターを買い、弾き語りで、なんとプロでもないのに友人知人60人を集めてコンサートを開催してしまった。とんとん拍子に話が進み、音楽事務所が決まり、専属アーティスト契約。このころ自分は天才だと思ったと言っている。しかし思えばこの根拠のない自信はあっという間に勘違いだったということに気付かされるのだ。
そしてもう一つの勘違いは、天才は努力なんて必要ないと思っていたというのだ。ある意味天才だからそう思えたのかも知れないが・・・
ミュージシャン生活でも山あり谷あり、最後にスポンサーを見つけることができ、勝負と思った瞬間、そのスポンサーの本業が傾きあっけなく終了。
残ったのは数千万円かけて作った音源だけだ。
結局話し合いの末、寺尾さんの元に音源の権利は残ることになる。しかし人の金で作った音は、誰かが良いと言った音を作ろうとしたので、自分が良いと思える音を作っていなかったことに気づく。
著書では「ソウル・キッチン」という映画からこんな言葉を引用されていた。
「売っちゃいけねよ!愛とセックスと伝統でだけは!」

結局、寺尾さんにとってはその音源は必要なくなった。
この時の想いが、後々のものづくりのスピリッツにも生きていくのだ。

何となくから形あるものに。

ミュージシャンを辞めてからも、心の奥底に何かあった。でも答えを見いだせない。そのモヤモヤから一つの答えを見つけることが出来た。それがものづくりだった。

父親譲りのバイタリティ。母親譲りの頭の良さ。そして彼が経験してきた全てがミックスされたとき、彼の人生はここから大きく飛躍していくのであった。

分からないことは、人に聞き。聞いてはまた調べ。人に聞く。そんな繰り返しをしていくなかで、抽象的なことでは相手は答えてくれないことに気づく。

そしてものづくりという抽象的なキーワードから、まずは机を作りたいという想いを形にした。タウンページを開き、いくつかの工場に電話をかけ、工場に出向き話を聞いて貰った。

その中で、図面がないと話が進まないと分かれば、設計図を書くことに挑戦する。
もちろん設計図なんて書いたこともないのに、フリーのCADソフトをダウンロード、教本を本屋で買い、独学で学んで行く。

ただそれでも話を聞いてくれた工場は少なく、唯一話をちゃんと聞いてくれた工場が、いまでも付き合いのある春日井製作所という会社だった。

当時熱い想いで机づくりを語った寺尾さんに、春日井製作所の社長さんから帰ってきた言葉は

「作ってあげられるよ。だけど、おにいちゃん、お金ないでしょう?1個だけだ作ると、高くなっちゃうんだよね。ウチの機械使っていいから、自分で作れば」

寺尾さんは二つ返事で「はい」といい、アルバイトが終わった夕方から毎日春日井製作所に通ったというのだ。

それにしても、ウチの機械使っていいとはいえ、冷静に考えれば電気代も、工具も
タダではないわけです。それに素人が触って壊されたら修理代だって馬鹿にならない。
それでも彼に機械を貸すといった社長さんの度量って凄いですね。
ここまでOKって言ってくれる人って、おそらく日本探してもいないですよ。(笑

少なくとも私の知り得る限り、そんなことを言う人は絶対いません。
貸すのもタダじゃないんだよって言う人は沢山います。まぁそういう人に限って、自分が他人から借りる時はお金を出すのを結構渋ったりします。町工場の社長って結構そんな感じの人だらけです。(大笑

そして悪戦苦闘し机は完成するが、売り物にはならない出来栄えだったそうだ。そこから次はバミューダの製品1号機となる、パソコンの冷却台を作って発売していくのだが、奥様にはその思いは受け入れられなかったようだ。(笑 しかし自分の好きを貫くという心情のもと、バイトをやめバミューダを創業していく寺尾さん。次なる課題が待ち受けていた。

創業から成長への壁

全て手作りで始めた会社は、パソコンの冷却台という商品を引さげ、販売準備に取り掛かる。レンタルサーバーを契約しドメインを取得し、ホームページを自作で作る。ここでもホームページなんて作ったことがないので教本を本屋で買ってきた。

だいたいの準備がおわるとお店に置いてもらった方がいいということでセレクトショップに電話をし、営業をかけていく。結果そこからMacの雑誌に載ることになり、会社は軌道に乗っていった。

しかし冷却台のマイナーチェンジ版を発売しても、それほど売れるわけではなく、次の製品開発に取り掛かろうとしていた。その時彼等はものづくり零細企業の課題にぶち当たるのだ。
それは万里の長城より長く、ベルリンの壁のように冷たい、身の丈では乗り越えられない課題と向き合うことになる。

パソコンの冷却台は、部品を1個ずつ加工していくので量産には向かない。支払いは部品代があればいいし、量産でないので在庫のリスクも軽減できる。しかし原価が高くなる。
必然的に販売価格も高くなる。競争相手がいると負ける可能性もある。なにより利益率が低い。

それを打破するのには、量産することだ。そこには、金型投資と資金調達という二つの課題が突きつけられる。

量産するには金型がいる。金型は安くない。でも作ってしまえば1個あたりの製品原価をビックリするぐらい下げられる。しかしそれには、まとまったお金が最初に必要なのだ。でも零細企業にまとまったお金などない。

でも今と同じ工法で作っていったら、利益は出ない。会社自体が危なくなってくる。

そんなジレンマとの戦いが始まった。

果たして彼等はこの課題をどのようにクリアーしたのか。そしてクリアーしても次の課題が迫ってくる。その課題と向き合いながらバミューダはどのように成長しいくことができたのか。

人生はまさに片道キップ=それは旅である。

安住の地なんて、ありそうでない。
今でもそう感じている寺尾さんの半生がつまった、「行こう、どこにもなかった方法で」
オススメの1冊です。手にとってみてください。

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