人は平等であるが、組織の中での上下関係は存在する。
少なからずとも大半の人は、組織(またはグループ)のなかで生活をしている。
ゆえに身の回りで上下関係が出来上がることは自然だ。
多くの人が、家族という単位の次に出会う組織は、学校・クラスという閉鎖された組織だ。
先生と生徒。
先輩と後輩。
いまでは、クラスでのヒエラルキー。
こんなところで最初の上下関係を体験していく。
特に閉鎖された日本の組織では、少なくとも上の者との議論の余地は殆どない。
議論を交わそうとするならば、「口答えするな」と言われることは少ないだろう。
本来は、しっかりと議論することを身に着けなければいけないのに、議論できずに大人になっていく。
もちろん議論するにもルールがある。
・ 相手の意見を聞く。
・ 感情的にならない。
・ 端的に短く話す。
・ 関係ない話を持ち出さない
・ 相手を追い詰めてはいけない。
・ 議論が終わってから議論について延長をしない。
など。
簡単そうにみえて、相当むつかしい。
わたしも経験があるが、だいたい出来ない。(笑
特に閉鎖的な上下関係の場合は議論せず、力で制圧する人がでてくることは言うまでもないだろう。
学校では、いわゆる体罰とみなされるケースだ。
その関係性は、先生と生徒だけではなく、先輩と後輩というのもあるだろう。
しかし体罰(力による制圧)につながる理由は、感情や議論が出来ないからではないと、先日の大相撲の事件で感じた。
その最大の理由は
相手が必ず仕返しをしてこないという安心感があるからだ。
つまり、相手が殴り返して来ないという安心感が根柢にないと、人を殴ったり、力による制圧はできないと思う。
誰だってどんな理由があろうと、人から殴られたり、刃物を向けられたりしたら、たまったものではない。人はあえてそんな状況に陥るようなことはしないはずだ。
あえてそれをするというのは、相手が反撃をしてこないだろうという安心感がどこかにあるからだ。
それは自分の方が立場が上だという認識以外にないのである。もし仮に誰かを力で制圧して、その場で刃物や拳銃を向けられたら、先生という立場でも横綱という立場でも、力で制圧するだろうかと思う。